戸隠神社信仰遺跡の歴史

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戸隠神社信仰遺跡は、昭和54年(1979年)3月22日に長野県史跡に指定された遺跡で、戸隠神社奥社参道のうち随神門から奥社に至る参道の両側約110mの地域が対象となっています。この史跡は「修験の道場として山岳宗教の形態等を知るうえで貴重な遺跡」として評価されています。

戸隠の宗教的起源と発展

  • ●平安時代初期(9世紀)

    戸隠の宗教的歴史は、平安時代に成立した『阿娑縛抄』に収められた「戸隠寺縁起」によると、仁明天皇の嘉祥年間(820年頃)に学問行者が修験を始めたことから始まります。

    • ・学問行者が練行によって仏法を弘めようとし、森厳なる環境にある戸隠山に至る。
    • ・従来農耕の神として崇められていた地主神九頭竜権現のもとに道場を開く。
    • ・この神を奉斎するとともに手力雄命を祀ったのが、後の天台派戸隠山顕光寺本院(奥院)の起源。
  • ●平安時代中期の発展

    • ・康平年間(1058年頃):表春命を宝光院(放光院)に祀る
    • ・寛治年間(1098年頃):思兼命を中院に祀る
    • ・治承年中(1178年頃):後白河法皇選集の『梁塵秘抄』に「四方の霊験所は、伊豆の走井、信濃の戸隠、駿河の富士山、伯耆の大山、丹後の成合とか、土佐の室生と讃岐の志度の道場とこそきけ」と謡われ、全国屈指の道場となる。
  • ●平安時代中期の発展

    • ・真言派(当山派)の修験も戸隠山西岳に道場を構える。
    • ・「戸隠三千坊」と喧伝されるほどの繁栄ぶりを見せ、比叡・高野と並ぶ三大霊場の一つとなる。
    • ・行者や山伏の修験道場として隆盛し、戸隠十三谷三千坊とも呼ばれる。
  • ●戦国時代の試練と筏が峰移転

    武田・上杉の争乱

    戦国時代になると、戸隠山は武田氏と上杉氏の争乱に巻き込まれ、絶えず存亡の危難に脅かされました。

    • ・三院の衆徒は、祇乗坊真祐の取り計らいで燈明位を残して一時避難。
    • ・筏が峰(現小川村)に移り、約30年の歳月を送る。
    • ・四神相応の地に祭神を勧請して旧儀を守り祭神を奉斎。

    帰山と復興

    • ・上杉景勝が賢栄に命じて帰山の便を図る。
    • ・越後国へ避難し保護を受けた戸隠の衆徒たちが景勝配下として朝鮮出兵等で大きな役割を果たしたことから、戸隠山の再建を支援。
  • ●江戸時代の体制確立

    徳川幕府による統制

    • ・慶長17年(1612年):徳川家康より千石の朱印地を拝領し「戸隠領」が成立。
    • ・「戸隠山法度」が定められ、幕府支配による寺院統制を義務付け。
    • ・戸隠一山は東叡山寛永寺の末寺となり天台宗の宗教的行事を執り行う。

    院坊制度の発展

    • ・別当は格式のある公家出身で、実際の寺務は寛永寺等から派遣された僧侶が執行。
    • ・執務場所は中院におかれ、一山の運営の中心は中院、さらには宝光院に移転。
    • ・奥院には寺院に奉仕する院坊が置かれ、江戸時代中頃から院坊は中院や宝光院へ里坊を置いて活動拠点とする。

    参道と院坊の整備

    • ・参道も院坊とともに整備され、両側の樹齢400年と言われるスギもその際に整備。
    • ・江戸末期~明治期の奥院図からも、参道に沿って院坊が配置されており、人為的な変遷があったことが確認できる。
  • ●明治維新と廃仏毀釈

    戸隠山顕光寺から戸隠神社へ

    • ・明治維新により廃仏毀釈が進むと、戸隠山顕光寺は戸隠神社となる。
    • ・奥院→奥社、中院→中社、宝光院→宝光社に改称。
    • ・慶応4年(1868年)8月:奥院の院坊は中社・宝光社に移され、本社・九頭龍社が残り神道祭祀の拠点となる。
    • ・仁王像に代わって随神像が安置され随神門となる。

    現在の史跡は、この明治維新の際に撤去された院坊の跡であり、江戸時代末期に描かれた『信州戸隠山惣略絵図』の姿から建物等が撤去され、スギ並木の参道だけが残った状態です。

    史跡の学術的意義

    戸隠神社信仰遺跡は、以下の点で学術的に重要です。

    • ・山岳修験道の実態:平安時代から江戸時代まで続いた山岳修験の場の具体的な姿を示す。
    • ・院坊制度の遺構:江戸時代の院坊配置や生活の痕跡を物理的に確認できる。
    • ・信仰と生活の融合:宗教施設でありながら多くの参拝客が逗留した寺内町としての機能も果たした複合的な空間。
    • ・時代変遷の記録:平安時代の講堂跡から江戸時代の院坊跡まで、各時代の信仰形態の変化を示す重層的な遺跡。
  • ●発掘調査で明らかになった遺構

    講堂跡の発見

    • ・昭和46年(1971年)の戸隠総合学術調査で発掘調査が実施され、以下の重要な遺構が発見されました。

    院坊跡群の配置

    参道の南には11院があり、奥社より神原(観法院)-今井(金輪院)-水野(常楽院)-太田(妙光院)-京極(妙観院)-成瀬(成就院)-奥田(真乗院)-安藤(安住院)-常田(常泉院)-渡辺(仏性院)-松井(妙智院)となっていた。現在確認できる院坊跡の特徴は以下の通りです。

    • ・造成技術:東傾斜の微高地の緩斜面を、背後を削平して前面に盛ることによって平場を連続して造成。
    • ・石積み構造:周囲には土留めや区画を意識した多くの石積みが確認でき、特に参道沿いは石垣状に比較的高く積み上げ。
    • ・建物遺構:平坦面には礎石が確認でき、建物の平面形も想定されている。
    • ・生活遺構:池跡とみられる凹みや、江戸時代の陶磁器(特に18世紀代の肥前系染付等の飲食具)が多数出土。

    講堂跡の重要性

    講堂跡は、九間×五間の大規模な建造物のあったことが礎石の配列状況で確認され、年代は出土品により鎌倉時代前後と推定されている。

    この講堂は山岳信仰の拠点であった可能性が強く、『戸隠山顕光寺流記』に、1098年(承徳2年)に奥院に講堂が設けられたとある記録と符合します。

  • 戸隠の史跡は、日本の山岳信仰と修験道の歴史を物語る貴重な文化遺産として、天然記念物である社叢とともに保存されている極めて稀有な事例といえます。

    日本の山岳信仰の歴史を物語る史跡と、信仰によって守られてきた自然が一体となった、国内でも類例の少ない極めて貴重な文化遺産として、総合的な保全が求められています。

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